生野の財産

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株式会社川上葬祭

会長 川上利一さん

昭和55年に4代目として就任。

共同体の葬儀の時代から、現在に至る式形態へと移行する中、さまざまなアイデアを生み出し、実践してきた。

生野の葬祭業界にあっては、まさに生き字引的存在。

株式会社川上葬祭 オフィシャルサイト
http://www.kawakami-sosai.co.jp/

葬儀という原体験

12歳にして葬儀を手伝い

家業である葬儀を初めて手伝ったのが小学校6年の時。時代的には、葬儀屋という仕事に偏見を持たれていた頃である。明治10年に祖父が、「川上本店」として創業。その手伝いをしていた父の後ろ姿を見て育ってきた。父の代になり、いつしか自分も同様に父の手伝いをしていた。中学を出た昭和38年からは、軽自動車に乗り込み、多いときには日に30件の葬儀の手伝いに回った。当時はなかった司会や幕を張るなどの飾りつけを始めた。現在の告別式という形式の走りであろう。

写真:業界では珍しいガラス張りのエントランス、店内も明るく開放的

再起の時代

葬儀業のあらゆることを独学でマスター

昭和20年、大戦最後の焼夷弾をうけ、店舗は焼失。看板も出さず、路地裏で葬儀業を営む ことに。やがて、政府の命により、生野区の葬儀業は、生野合同という形に統合された。代表であった父は、その後、当時の仕事仲間に得意先と祭壇までも分配 してしまい、名前のみを残す状況になってしまう。現在、大阪市内でも特に生野区に葬儀業が多い所以である。
昭和55年、思いもよらず父、母、さらに三代目となるべき兄をも同時に亡くし、若干33歳にして当主にならざるを得なかった。その時、葬儀業を全うしようとした思いはどこから来たのか。2人の子供を抱えて生き抜かなくてはならないという状況だけではないだろう。「先代が始めたこの事業を、もう一度、表舞台にしたい」いう熱い思いにほかならない。  

以来、「亡くなった方があくまで主役」という思いで、誠心誠意、葬儀業をまい進してきた。亡くなった方に敬意を払い、残された遺族の気持ちを思いやる。納棺は人に任せない。徹底して自分で担当する。早くに父母兄を失った川上氏にとって、身内を亡くした哀しみは他人事ではない。その都度、親身になり、たくさんの方を見送ってきた。葬儀に関するあらゆることを独学で学び、経験を積み上げてきた。そのすべてが頭に入っていて身についている。それが46年にわたって築き上げてきた財産だ。

写真:お世話をさせていただいた方から届いたメッセージ

先代から自分へ、そして息子へ

理念を持った上での模索を目指す

ますますの高齢化時代に向けて、葬儀業への異業種の参入が増えつつある。葬儀業に資格はいらない。近頃は、アウトソーシングにより、葬儀施行の分業も行われている。しかし、川上氏は「今の葬儀屋は葬式を知らない」という。経験の積み重ねもなければ、勉強もしていない。お金儲け専攻のビジネスとしての葬儀業に疑問を投げかける。こうした “仏様が主役”という理念は、5代目となった長男にもしっかりと引き継がれている。そして、「ご縁をもとに本音でお付き合い」を社のキャッチフレーズに、心ある葬儀を手がけている。その上で、WEBも重要視し、若い世代のマーケット拡大にも力を入れている。実際のところ、インターネットによる葬儀依頼も10%を越えている。海への散骨や宇宙葬もすでに手がけ、さらなる葬儀スタイルが模索されるであろう。  
昔からの地の人が多く住み、戦禍をまぬがれた地も多く、移動が少ない生野区。なじみの顔がそこかしこにあり、年齢を重ねるにつれ、安心して住める町だと実感できる。「お年寄りが多いからこそ、なおさら古いことも継続してやっていきたい。地元の人々に支えられてきたから、五代目まで続けられてきた」という言葉の中に、地域に根ざして信頼の葬儀を積み重ねてきた老舗としての自負が見えた。現在は、鶴橋連合防犯支部長や鶴橋連合第4振興町会長も務め、より住みよい生野区を目指して奔走している。